2009年05月31日

我々の“罪”の償いは私達の意図と意向によります

マイケル・ライトマン博士のブログlaitman.comの記事です。
元記事はここです(2009年5月30日投稿)


受取った質問:私はあなたの著書を長い間読んできました。私はキリスト教徒の家庭で育ちました。しかし私の全質問には答えがありませんでした。あなたは何度も聖書とは寓話的に書かれているので文字どおり(逐語的)に解釈すべきではないと言いました。私も同じことを大分前に確信しました。しかし、なぜ聖書は罪の犠牲という概念を起用するのですか?キリスト教における最も重要な信仰はキリストが人類の罪の生け贄として自分自身を捧げたことを考慮して、なぜ罪あがないの供物という戒律の必要性があるのですか?


私の答え:聖書(トーラー)の全部に書いてあることは、どのようにして人間のエゴイズムを是正し、創造主との完全な同等性の段階に到達するのかということです。聖書のありうる罪のすべてを列挙している箇所は、人間のエゴイズムの啓示について書かれたものです。


その意味は、人が自己のエゴイズムをさらけ出すとき、自分が罪人であると感じるということです。なぜなら自己の利益の為に他者を利用するからです。聖書(トーラー)はまた解決法もあり、私達のエゴイズムの是正の仕方を伝えます。聖書(トーラー)の説明することは、エゴの異なる段階(無生物、植物、動物、人間)とエゴの是正方法についてです。もっと正確には、それは私達の意図・意向を“自己のため”から“他者のため”に是正させる方法を伝えているのです。


もっと知りたいと思った方はこちらのサイトをご覧ください:
ブネイ・バルーフ カバラ教育研究所
Bnei Baruch Kabbalah Education & Research Institute
マイケル・ライトマン博士のブログlaitman.com
YouTube日本語字幕つきビデオ
www.illuzia.net(日本語)
posted by watermouth99 at 20:05| Comment(0) | 旧約聖書 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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